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2005年07月27日

第93回「まつが作る味噌汁の味噌はどんな味噌だったか?」【週刊ウンチク】

第93回(2002.12.5)「まつが作る味噌汁の味噌はどんな味噌だったか?」
提供:金沢・ヤマト醤油 山本晴一さん


ヤマト醤油 山本晴一専務。

今週は、醤油ソフトクリームも大好評の「ヤマト醤油味噌
山本晴一さんの味噌汁ウンチク第2段です。
松嶋菜々子さん演じるまつが味噌汁を供するすがたを見て
「ハ~ うちの嫁さんになってくれんかなァ~」と思った男性も多いはず!?

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「まつが作る味噌汁の味噌はどんな味噌だったか?」

さて、NHKの大河ドラマ「利家とまつ」は御覧になっていますか?
「まつ」の味噌汁は、諍いが終わった後に、平安な状態になった時に象徴的に利家に供されています。
あの味噌汁に使われている味噌や、おだしはどんなものだったのでしょうか?
興味はありませんか?

まずは、歴史的背景の説明から・・・。

・利家が生まれたのは、天文6年(1537年)。
・まつは、天分16年(1547年)生まれ。
・二人が結婚したのは、永禄元年(1558年)。利家21歳、まつ12歳でした。
・翌年には、長女・幸を、1562年には、長男・利長を生んでいます。
このころの住まいは、荒子城から、清洲の町でしたから、たぶん、豆味噌を食べていたのだと推測されます。

・天正3年(1575年)利家38歳、まつ28歳の時に、越前国の府中城(参萬五千石)の城主(大名)となる。初めての城持ち。
・天正9年(1581年)利家、能登一国(二十三万三千石)を領有する。七尾城に居城する。
・天正11年(1583年)利家、秀吉より加賀国の石川、河北郡を加増される(四万石)
・同(1583年)6月14日に、七尾城から、金沢城に入城して、この街の発展の礎を築いていく。利家46歳、まつ36歳の時です。
天正13年(1585年)長男、利長を越中国の3郡(砺波、婦負、射水)の領主にする。加賀百万石を築くお米の石高は、この越中国で主に算出されたと言われております。当時の加賀平野は、手取川(あばれ川)の川筋の変化があり、荒れ野も多く、今ほどの水田地帯ではなかったと言われております。

・文禄2年(1593年)に、利家の四男・利常が生まれる[母は側室チヨ]
・慶長19年(1614年)には、この利常が、前田家三代目となる。金沢の町の整備は、この3代藩主・利常のころにようやく完成することになる。
・慶長の後の年号は、元和、寛永と来て、お江戸の文化(=日本の食文化)が花開いていくのです。

さて、それでは、本題に入っていきましょう。
加賀百万石の味噌はどんな味噌だったのでしょうか?

利家が金沢に入城してからは、味噌も軍需品として統制され、その製造販売についてはいろいろと制限が加えられていた、と記録にありました。
利家が金沢で作らせた味噌は、豆味噌ではなくて、大豆と米糀で作る、現在の米糀味噌(ただし、長期間の保存が利くように、塩分は非常に高い、辛口の味噌=くど味噌=くどい・塩辛い味噌)だったと考えられている。
塩分が高い結果、長期間(2夏以上)熟成しなければ食べられない、色の濃い、つまりは豆味噌に色の近いものだったと考えられます。
色は豆味噌みたいなチョコレート色に近いけれど、米糀が入っているので、米の甘味もあり、新鮮な魚や野菜に良く調和する味噌であったと思われます。

記録によれば、藩内の領民に対する、最初の禁令は、江戸幕府が創設された(1603年)直ぐ後の、慶長10年(1605年)に発せられていて豆腐や味噌の原料である、大豆と塩に対して、加賀藩の統制があったことがうかがい知れます。

加賀藩は、能登に塩田を設けて全部を買い上げ、大豆は藩内の収穫だけでは足りずに、越後から買い入れていたとあります。
寛永14年(1637年)=年常の頃には、「20石御前(藩主)味噌用、河北郡大豆。百石御台所(大奥味噌用、新潟中大豆」とあります。藩用の味噌は、大野町(わが町)、宮の腰(銭屋五平のいた金石町)でつくり、一方は金沢に送って藩主および武士用とし、一方は江戸へ送って江戸詰め武士の使用に当てた。

金沢市内には、味噌蔵町の名前があるが、藩が軍用に食糧を貯蔵した味噌蔵があったからで、享保年間に刊行された「武家耳底記」には「黄門利常(=前田3代藩主)卿の時、味噌蔵あり、今の奥村市右衛門第地(九人橋下通中間南側)是なり、故にその辺を味噌蔵町といへり」とあって、300年前から味噌屋はあったことが記録に残っている。

ただし、昆布は、北前船が盛んになる1800年代にならないと一般には普及していないし、同じようにかつお節も、江戸の初期には、茹でてから干しただけのもので、旨みのある黴付けの本枯れ節が流通するのも同じ時期だといわれているので、現在のようなお出しとあわせる、美味しい味噌汁が完成するのは、和食が完成したと言われる江戸時代の文化・文政(1804年~1830年)時代に入ってからです。

つまり、まつの作っていた味噌汁には、今のようなお出しは使っていなかった?!
(でも、個人的には、そのころの食べていた味噌汁は、ドラマの中と同じように確かに美味しかったのだろうと思います。なぜなら、今の野菜とは違って、旬の野菜しか取れなかっただろうし、その野菜自体に凝縮した旨さが詰まっていたと考えられるからです。)

利家とまつの頃は、玄米と長期熟成の味噌汁を常食にしていた、大変健康な食事内容だったと推測されます。

これって、スローフードだよねえ。贅沢なんだー、今となったら!

投稿者 お店ばたけ事務局 : 2005年07月27日 10:02

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