石川県ふるさと語りの最近のブログ記事

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第133回「横綱・阿武松緑之介」【週刊ウンチク】

第133回(2003.9.18)「横綱・阿武松緑之介」
提供:ホリカワ 花野美貴雄さん


絵本「能登昔ばなし」石川の道の駅などにあります。

今週は、石川のおもちゃ屋さん、ホリカワおすすめ
石川の絵本「能登昔ばなし」から、江戸時代に活躍した
能登の名力士 阿武松緑之介(おおのまつみどりのすけ)の物語です。

横綱・阿武松緑之介


 江戸時代のお話です。能登、能都町の七海村に長吉という若者がおりました。
 長吉は大きな体で、、力も強かったので、村の人々から、相撲取りになれとすすめられていました。

 二十五才になった時、長吉は江戸の武隈関という親方に入門することになりました。
 村の人々もよろこんで、長吉が江戸へ旅立つ日に、みんなして見送りました。


 ところが、江戸にいった長吉は自分より強い者がたくさんいることにびっくりしてけいこもろくにしませんでした。

 くる日も、くる日も、けいこもせずに大飯ばかりくらっていたので、親方から破門にされてしまいました。
 長吉はいくところもないので、村へかえることにしました。その道中、長吉は村へかえっても、みんなにあわせる顔がないなあと、ふさぎこんでいました。


 ところが、そんな長吉も、雄大な富士山の姿にはっとしました。
 「おれも、富士山みたいにだれにみられてもはずかしくない立派な相撲取りにならねば、村にはかえれんわい。」

 長吉は今までの自分を反省し、江戸にもどっていきました。 
 そして、両国橋の錣山(しころやま)親方にに入門すると、それは熱心にけいこをはじめました。 長吉はみちがえるほど強くなり、五年後、小柳長吉というしこ名をもらいました。

長吉はみちがえるほど強くなりました。

 文政五年の春、とうとう長吉は前の親方であった武隈関と勝負しなくてはならなくなりました。
 長吉は、破門にはされたけれど、世話になった親方と相撲を取るのは気がすすみません。そんな時、長吉は村へかえろうとした時、道中で見た富士山を思い出しました。
 「そうだ。なにもまようことはないんだ。富士山みたいに正々堂々とやればいい。」
 そして、長吉は立派に武隈関を上手投げで負かしました。

 長吉はそれからも、もくもくと熱心にけいこをつづけ、文政十年には阿武松緑之介(おおのまつみどりのすけ)と名のるようになり、翌年ついに横綱になりました。

長吉は能登にとって、初めての横綱になりました。

<ミニリンク集>
能都町 …阿武松緑之介の出身地である、能都町の公式サイト。
財団法人日本相撲協会公式 大相撲ホームページ石川県出身の力士現役では出島 栃乃洋。引退した方では舛田山(現千賀ノ浦親方)、輪島大士(第54代横綱。現在は様々な方面でご活躍中)
『ヤマト猛(タケ)る!』…七尾市石崎町出身の漫画家 宮下英樹さんの、能登を舞台とする高校相撲の漫画。
唐戸山神事相撲 …羽咋市の、2000年の歴史を持つ「水無し・塩無し・待った無し」の神事相撲。9月25日開催。
七尾明治記念相撲 … 毎年10月第3日曜日に行われる腕に自信のある猛者が集う大会。小丸山公園内 愛宕山相撲場にて開催。10月19日(日)開催。
蓮華山大相撲志雄町で500年余りの伝統を誇る大相撲。
応仁年間、越中・加賀・能登の力自慢が年に一度に源平の古戦場となった蓮華山で相撲を始めたのが今に伝えられています。10月17日(金)開催。

第132回「本物志向が久しく」【週刊ウンチク】

第132回(2003.9.11)「本物志向が久しく」
提供:お店ばたけ事務局 totoさん


輪島塗、「地付」の様子

今週は、お店ばたけ事務局のtotoさんが
石川の伝統工芸「輪島塗」「山中漆器」についておはなしします。
石川県には、いくつもの伝統工芸がありますが、食器であるこれらは生活にも取り込みやすいものですね。

本物志向が久しく

みなさん、環境にやさしく、
体にも優しい食品・衣料・住まいに注目されていますか。
身近なもので最たるものは、毎日使っている食器でしょうね。

ご飯にしても、おみそ汁にしても毎日、美味しく食べたいですね。
陶器の食器は、さほど意識はしませんが、漆器となると、よほど使い慣れている人のほかは、敬遠しがちです。

”扱いづらくて”という方がほとんど。
でもそれほど神経質にならなくても、良いようです。

ところで、石川県内には、輪島塗山中漆器の2大産地があります。
なぜか、「ぬり」と「しっき」の言い方を使い分けていますが、その理由までは寡聞にして知りません。どなたか、教えてください。

__________________

輪島塗は、豪壮で男性的・・・

山中漆器は、繊細優美で女性的・・・
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と言われています。
手に取ってみると、「なるほど」と納得。一度試してください。
豪快にどんぶり飯をかき込むには、輪島塗。
じっくり煮込んだ煮物の盛りつけは、山中漆器で。

朱・赤の伝統的な色具合もいいですが、
落ち着いた緑、黄も、洋風食卓にピッタリ! 良いものです。

プラスチックの食器で簡単に済ませず、時には本来の器を楽しみましょう。
自己満足でも良いじゃないですか。

★「愛用品」で毎日の食事を楽しむ・・・
 作家ものの漆器や陶器を販売するお店<生活具の店器屋>もごらんください。

第124回「御陣乗太鼓」【週刊ウンチク】

第124回(2003.7.17)「御陣乗太鼓」
提供:ホリカワ 花野美貴雄さん


絵本「能登昔ばなし」石川の道の駅などにあります。

今週は、石川のおもちゃ屋さん、ホリカワおすすめ
石川の絵本「能登昔ばなし」から、輪島名物「御陣乗太鼓」の歴史物語です。

御陣乗太鼓

 戦国時代のこと、越後の上杉謙信が能登の国まで攻めよせてきました。
上杉勢は熊木、穴水、七尾城を攻め落し、珠洲から輪島へと攻め込んできました。

 名舟という村まで植えすぎ勢が攻め込んできたときのことです。
「このままでは、負けてしまう。なにかよい考えはないものか?」
と、村の人々は話し合いました。
一人の老人が上杉勢を追いはらうよい考えをだしました。
それは木でつくった奇妙な顔をした面と海草であしらった髪の毛やひげで変装をして
上杉勢をおどかそうというのです。

日が沈みかけた名舟の浜に、村の人々が変装をして立つと、その異様な姿は、効果ばつぐんのようにみえました。

そして、村の人々は静かにそっと、上杉勢の背後にまわりこみました。

しかも、老人の合図とともに、いきなり陣太鼓を打ちならしたからたまりません。

ドンドコドンドコ、御陣乗太鼓

妖気が人々に乗り移ったようだ・・・

ここを立ち去れ!

勝ち進んできた上杉勢にしてみたら、それらは今までまかしてきたものたちの亡霊にみえたのです。そして、村の人々からみても、御神乗りといって妖気が面をつけた人々に乗り移ったようにみえました。

びっくりした上杉勢は、あっという間に退陣してしまいました。
村の人々はそれをみて、一安心したのはもちろんですが、

「これは舳倉島の田心姫神(たごりひめのかみ)の助けがあったからにちがいない。」

と、いいあいました。

それから、毎年7月31日から8月1日にかけて、海に建つ鳥居まで、舟で御輿を運び、お参りをするようになりました。
それ以後、御神が敵陣に乗りこんだということから、陣太鼓が御神乗太鼓と呼ばれるようになりました。

<ミニリンク集>
名舟大祭 …7/31・8/1に開催される、御陣乗太鼓で有名な名舟の夏祭。
御陣乗太鼓実演2003道の駅輪島ふらっと訪夢にて午後8時40分から披露されます。
輪島大祭8/23~26開催の、能登の特徴ある巨大キリコのお祭り。
ふらっと訪夢 …市内循環「のらんけバス」が、輪島観光をお手伝いします。
輪島へのアクセス …輪島市観光協会ホームページ。
輪島におこしの際はぜひ能登空港をご利用ください。

第119回「門前町 泣き砂物語」【週刊ウンチク】

第119回(2003.6.12)「門前町 泣き砂物語」
提供:ホリカワ 花野美貴雄さん


絵本「能登昔ばなし」

能登空港開港間近、今週は能登・門前町のむかしばなし。
歩くと、キュッキュッと音がする門前町琴ヶ浜の「泣き砂」は有名ですが
その砂にまつわる悲恋物語を、ホリカワの絵本「能登昔ばなし」からご紹介します。


泣き砂物語


重蔵は一目千両の遊女、おさよに会いたくなる

 むかし、輪島に重蔵という船乗のりがいました。重蔵は大きな舟を自分の手で作ってみたいという夢をもっていました。
 だから、お金をためながら、ひまさえあれば船大工の勉強をしていました。
 ある日、重蔵はある港につきました。その港には、金持ちばかりを客に持つ一目千両といわれる美しい遊女がいました。
 重蔵はどういうわけかその遊女に一目会いたいと、今までためたお金を出しました。
「おれは貧しい船のりだ。これだけのお金しかないが、一目おまえにあいたかった。」
という重蔵の言葉におさよという女は言いました。
「今までたくさんの人とあったけれど、あなたほど心のこもった人はありません。」
 二人は酒を飲みながら語り合いました。おさよは輪島からすこしはなれた剣地の浦土村の生まれでした。酒によったおさよが唄いました。

 山の奥山の一軒家でも
 竹の柱に萱の屋根
 茶碗で米磨ぐ所帯でも
 手に鍋さげても厭やせぬ

 重蔵は涙をうかべて唄うおさよをいじらしく、いとおしく思いました。
それから半年ばかりたったある日、重蔵はおさよに北の海へいくことをいいました
「この仕事で船のりをやめる。かえったら夫婦になろう。そして、船大工になろう。三ヵ月もたったらかえってくる。長くて半年もかかるまい。なあ、まってくれるな。」
 それから、おさよは重蔵の言葉をしんじて重蔵のかえりをまちました。
 しかし、三ヵ月たっても重蔵はかえってきません。おさよは重蔵を慕うあまり病気になってしまい、ふるさとの剣地の浦土村にかえされました。
 そんなある吹雪の夜、ゴーゴーという海鳴りをきいたおさよは一心に浜めがけて走り出しました。おさよにはその海鳴りの音が重蔵のよび声にきこえたのです。
 浜にでたおさよは沖を見つめていました。と、とつぜん、おさよがさけびました。
「船が、船がみえる。重蔵さんの船がみえる。」
それは重蔵を思うおさよにだけみえるものでした。そのひとつ岩にたちつくすおさよの姿は村の人々にとっても、あわれなものでした。
 そして数日後、ひとつ岩にたつおさよは冬の荒波にのまれて死んでしまいました。
 春が来ても重蔵はかえってきませんでした。
 そして、ある日、浜であそぶ子どもたちが大さわぎをしています。
「砂が、砂が泣いているようだ。ほら、歩くと、キュッキュッと泣いているだろう。」
そこはおさよがたっていたひとつ岩のあたりでした。村の人々はいいました。
  「おさよさんが重蔵さん恋しさに泣いているんだろう。」

おさよは重蔵を思う余り、荒ぶる冬の荒波に・・・

それから不思議なことが起こるようになりました。沖をとおる船がひとつ岩の目前にくると、急に動かなくなったり、速度が遅くなったりするようになりました。
 「おさよさんが重蔵さんの船だと思ってとがめるのかもしれん。あわれなことだ。」
 村の人々は浦土町の海のよくみえる山におさよの祠(ほこら)をたててやりました。

 ところが、やっぱり沖をとおる船は動かなくなるんです。
「おさよさんはほんに重蔵さん思いだ。あの祠から船はまるみえだし、まだまだ、重蔵さんを恋しく思っているんだろうよ。」
 村の人々は考えて、祠を船のみえない場所にうつしました。

 それからは、沖をとおる船は動くようになりましたが、浜を歩くとキュッキュッとなる声だけはやみませんでした。今でも剣地の琴が浜は泣き砂の浜と言われています。

<ミニリンク集>
泣き砂の音が聴けるページ…門前町ホームページより。

第93回(2002.12.5)「まつが作る味噌汁の味噌はどんな味噌だったか?」
提供:金沢・ヤマト醤油 山本晴一さん


ヤマト醤油 山本晴一専務。

今週は、醤油ソフトクリームも大好評の「ヤマト醤油味噌
山本晴一さんの味噌汁ウンチク第2段です。
松嶋菜々子さん演じるまつが味噌汁を供するすがたを見て
「ハ~ うちの嫁さんになってくれんかなァ~」と思った男性も多いはず!?

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醤蔵のソフトクリーム。しょっぱくないよ。
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ソフトな食感なんだとか!
う~、ソフト!クリーミィー!
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「まつが作る味噌汁の味噌はどんな味噌だったか?」

さて、NHKの大河ドラマ「利家とまつ」は御覧になっていますか?
「まつ」の味噌汁は、諍いが終わった後に、平安な状態になった時に象徴的に利家に供されています。
あの味噌汁に使われている味噌や、おだしはどんなものだったのでしょうか?
興味はありませんか?

まずは、歴史的背景の説明から・・・。

・利家が生まれたのは、天文6年(1537年)。
・まつは、天分16年(1547年)生まれ。
・二人が結婚したのは、永禄元年(1558年)。利家21歳、まつ12歳でした。
・翌年には、長女・幸を、1562年には、長男・利長を生んでいます。
このころの住まいは、荒子城から、清洲の町でしたから、たぶん、豆味噌を食べていたのだと推測されます。

・天正3年(1575年)利家38歳、まつ28歳の時に、越前国の府中城(参萬五千石)の城主(大名)となる。初めての城持ち。
・天正9年(1581年)利家、能登一国(二十三万三千石)を領有する。七尾城に居城する。
・天正11年(1583年)利家、秀吉より加賀国の石川、河北郡を加増される(四万石)
・同(1583年)6月14日に、七尾城から、金沢城に入城して、この街の発展の礎を築いていく。利家46歳、まつ36歳の時です。
天正13年(1585年)長男、利長を越中国の3郡(砺波、婦負、射水)の領主にする。加賀百万石を築くお米の石高は、この越中国で主に算出されたと言われております。当時の加賀平野は、手取川(あばれ川)の川筋の変化があり、荒れ野も多く、今ほどの水田地帯ではなかったと言われております。

・文禄2年(1593年)に、利家の四男・利常が生まれる[母は側室チヨ]
・慶長19年(1614年)には、この利常が、前田家三代目となる。金沢の町の整備は、この3代藩主・利常のころにようやく完成することになる。
・慶長の後の年号は、元和、寛永と来て、お江戸の文化(=日本の食文化)が花開いていくのです。

さて、それでは、本題に入っていきましょう。
加賀百万石の味噌はどんな味噌だったのでしょうか?

利家が金沢に入城してからは、味噌も軍需品として統制され、その製造販売についてはいろいろと制限が加えられていた、と記録にありました。
利家が金沢で作らせた味噌は、豆味噌ではなくて、大豆と米糀で作る、現在の米糀味噌(ただし、長期間の保存が利くように、塩分は非常に高い、辛口の味噌=くど味噌=くどい・塩辛い味噌)だったと考えられている。
塩分が高い結果、長期間(2夏以上)熟成しなければ食べられない、色の濃い、つまりは豆味噌に色の近いものだったと考えられます。
色は豆味噌みたいなチョコレート色に近いけれど、米糀が入っているので、米の甘味もあり、新鮮な魚や野菜に良く調和する味噌であったと思われます。

記録によれば、藩内の領民に対する、最初の禁令は、江戸幕府が創設された(1603年)直ぐ後の、慶長10年(1605年)に発せられていて豆腐や味噌の原料である、大豆と塩に対して、加賀藩の統制があったことがうかがい知れます。

加賀藩は、能登に塩田を設けて全部を買い上げ、大豆は藩内の収穫だけでは足りずに、越後から買い入れていたとあります。
寛永14年(1637年)=年常の頃には、「20石御前(藩主)味噌用、河北郡大豆。百石御台所(大奥味噌用、新潟中大豆」とあります。藩用の味噌は、大野町(わが町)、宮の腰(銭屋五平のいた金石町)でつくり、一方は金沢に送って藩主および武士用とし、一方は江戸へ送って江戸詰め武士の使用に当てた。

金沢市内には、味噌蔵町の名前があるが、藩が軍用に食糧を貯蔵した味噌蔵があったからで、享保年間に刊行された「武家耳底記」には「黄門利常(=前田3代藩主)卿の時、味噌蔵あり、今の奥村市右衛門第地(九人橋下通中間南側)是なり、故にその辺を味噌蔵町といへり」とあって、300年前から味噌屋はあったことが記録に残っている。

ただし、昆布は、北前船が盛んになる1800年代にならないと一般には普及していないし、同じようにかつお節も、江戸の初期には、茹でてから干しただけのもので、旨みのある黴付けの本枯れ節が流通するのも同じ時期だといわれているので、現在のようなお出しとあわせる、美味しい味噌汁が完成するのは、和食が完成したと言われる江戸時代の文化・文政(1804年~1830年)時代に入ってからです。

つまり、まつの作っていた味噌汁には、今のようなお出しは使っていなかった?!
(でも、個人的には、そのころの食べていた味噌汁は、ドラマの中と同じように確かに美味しかったのだろうと思います。なぜなら、今の野菜とは違って、旬の野菜しか取れなかっただろうし、その野菜自体に凝縮した旨さが詰まっていたと考えられるからです。)

利家とまつの頃は、玄米と長期熟成の味噌汁を常食にしていた、大変健康な食事内容だったと推測されます。

これって、スローフードだよねえ。贅沢なんだー、今となったら!

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